防災三原則より その2

③「率先避難者たれ」

実のところ、三原則で最も心に残ったのはこれであった。
恐らく私が人生においてかなり苦手とすることだからだろう。

私は桜の散る様を潔いと愛でる類の人間である。
勝負は正攻法を好み、人を陥れるなどもってのほか、
卑怯な手を使って勝つくらいなら負ける方がましだ。
よって逃げることも好まず打ちのめされても耐えることを選んできたように思う。

そのために不要なダメージをくらったり
心身を削って満身創痍で日々を過ごすこともある。

もちろん相手が威風堂々としたものならば
圧倒的な力の前に敬意を払って最初から負けを認めることができる。
だが明らかに間違っているのに勝ちを気取られると
こちらも戦わざるをえないと腹をくくってしまう。

しかしながら「逃げるが勝ち」ということばがあるように
人生には逃げることを選択することが結果的によかったと思えることがあるようだ。

まあ何もかもがほどよいバランスで、逃げることしかしないのはこれまた疑問だが
私は自身の信念を曲げたくないために
振り返ってみれば「火中の栗を拾う」ことの多かったこと、
後悔はしていないが愚かだといえばそうかもしれない。

誰かと比較してより早く逃げる者というのではなく
これからは自分の中に「率先避難者」を在住させておこうと思う。

天災に戦いを挑むことが無意味であることはわかっていた。
だが「命を守る」ということだけに焦点を当てれば
天災に限らず何事も戦わずに逃げる(その場から立ち去る)ことのみが正解なのだと
あの防災の日に再認識したしだいである。

耐える価値もない落とし穴ばかりの道ならば
さっさと立ち去り他の道を歩く方が格段に賢明で意味がある。


最近自殺の報道が多い。「率先避難者たれ」




防災三原則より(学校だよりの続き)

①「想定にとらわれるな」

危機対応はいろいろなケースを想定して準備しておくことが大切である。
が、同時に、想定していたことがいつも正しいとは限らない。
何かが起こったとき、自分の経験則だけで判断するのではなく
「今、そのとき」の直感や判断を信じて行動することが必要な時がある。
世の中の事象は無限の可能性があるのだから
誰もが思ってもみない出来事に必ずどこかで遭遇するだろう。
その瞬間答えを出すには、今まで培ってきた自分を信じるしかない。
揺らぎなき自己肯定感が試されることになる。
そのときその場で何が必要なのか現場にいない他の誰にも委ねることはできない。
自分自身で決めるのだから、その結果に自分自身で責任をとる潔さも必要だ。
人生にはそんなとんでもない選択を迫られることが必ずあるものだ。
想定しておくけれども想定にとらわれない、そこのところが人生難しということか。



②「その状況下において最善を尽くせ」

(「陰陽記」平成22年12月記事より)
遅ればせながら映画「カイジ」が最近のマイブームで、
漫画で連載されているというのでレンタルで42冊を一気に読み終えた。
言っておくが情感ある文芸書でもないし、教育的道徳本のようなものでは全くない。
ただ、主人公にある不屈の精神に共感したのである。
要は勝負に臨むとき、自分の置かれた状況がどんなに不利な状況にあったとしても
最後まであきらめずに手持ちのものでなんとか切り抜けることを考える力である。
わかってはいるが人間はもうだめだと思って気持ちがなえてしまうと、道は終わってしまう。
だから最後の最後まで戦い抜くのである、道はまだあるはずだと。
私は高校時代から多くの病気にさいなまされてきた。
何度も自分の体を嫌悪し、健康なものをねたましくさえ思った。
だが、何年もかけて到達したのは、
自分に残された健康な部分でできるところまではやるという精神だ。
そういう意味でこの独特なタッチの「カイジ」はかなり私の激励歌となった。
何事もこの意気だ。受験もクラブもこれからの人生もぎりぎりまで諦めるな!



③「率先避難者たれ」 については後日に・・・

繰り返し

「陰陽記」平成21年6月記事より

人間は一生の中で一度は戦争を体験せざるをえない、
そんなことばを聞いたことがある。
人の愚かさを嘆いたことばだろうが、そうであれば、
私が生きている間にも戦争が起こってしまうことになる。
万一そんな事態になれば、今度はもう人類は滅亡してしまうのだろう。
広島や長崎の声は届かないまま?

新型インフルエンザが世界に蔓延して、
人類はウイルスの脅威を恐れている。
強毒化すれば多くの死者を生むということだから、
警戒して当然であろう。
だが、戦争の脅威もまたウイルスと同様に、
私たちのすぐそばにあることを忘れてはいけないと思う。
何事も非常事態になってからでは、
時すでに遅し、ということになろう。

____________________________

当時は「新型インフルエンザ」だったが
「コロナウイルス」と置き換えても通じる内容。
10年ほど前の文章であるが、今も健在のようだ。






地球の声を聞く

コロナで非常事態宣言が出されていた最中
あるニュースを聞いて考えこんでしまった。
あちこちで自然の動植物が戻ってきている、というのだ。
人間が出歩かなくなった結果である。
環境破壊については平時より問題になっているが
コロナが広がることで人々の活動が抑え込まれ
地球の本来のエネルギーが発揮されるとは・・・
理解できても何とも皮肉なものである。

昔、人間を守るウルトラマンと地球を守るウルトラマンの対立シーンがあった。
人間を守ると地球の一部を壊してしまうこともある。
地球を守ろうとすると人間の存在が邪魔にもなる。
ウルトラマンは協力して地球と人類どちらも守っていくことを目指すのだが
果たして現実にはこの二つは両立するのだろうか。
非常事態宣言の解除によってあちこちに繰り出す人間を見て
残念がっている生物たちも多くいるのではないだろうか。
ウルトラマンのように短時間では答えは出そうもない。

先日知床でクマと共存する老人が、人間もまた自然の一部であると力説していた。
当たり前のようですっかり忘れている感覚だろう。
畑を荒らされるからと山から下りてきた生物を追い払い
都合のいい時だけ自然を求めるのは利己的すぎるといったところか。
地球上で食物連鎖の頂点にいる(かのような)人類は
他の生物に食べられるという恐怖を味わったことがない。
そんな中、コロナ感染で私たちは「喰われる恐怖」にさらされている。
自然の一部であることを再認識して他と共存していくことは喫緊の課題かもしれない。

自然には「しぜん」と「じねん」といった読み方があるが
無為自然といった考え方は後者の「自然」に当たる。
「自ら然らしむ(みずからしからしむ)」、なされるがままの状態というものだが
そこには「生かされている」という謙虚な気持ちがある。
地球の声に耳を傾け、なすべきことをなす、
「無為」とは何もしないことを意味しているのではなく
余計な作為的なことをしないという意味である。
それがなかなか難しい。

まもなく夏休みがやってくる。
今年の格段に短い夏休みは、地球の声を聞きながら
無為自然と過ごすことに専念したいと思う。















読書のすすめ

よく国語力をつけるために本を読めという人がいるが
誤解を恐れずに言えば、それは少し違うのだ。

バットの素振りをイメージしてほしい。
確かに素振りの回数を増やせば、それはそれで意味がある。
でも適切なコーチにアドバイスをもらって練習すれば
少ない回数でも効果的な振り方を習得することができる。
ひたすら素振りをすることで少しずつ自分の方法を見つけることもできるが
それにはかなりのセンスと才能も必要だ。
本を読むという行為もそれに似ている。
読書という一見だれでもできる行為が簡単なものではないことは
苦手な人はより実感していることではないだろうか。
得意なものはバットをボールに当てるように振ることは容易だろうが
私であれば多くの時間を費やすことだろう。

本を読むことの醍醐味は「出会い」を得ることである。
古代の哲学者から現代のアイドルまで
こちらが望めば、みな門戸を広げて膝を突き合わせてくれる。
心の悩みを相談することもできるし、自分の考えと同じだと喜ぶこともある。
知らなかったことを教えてもらえたり、
時にはそれは違うだろうと疑問に思うこともできる。
また、作者の創った世界に降り立つことで
現実とは違う環境や人生までも味わうこともできるのである。
読書は自分の世界に閉じこもることでなく心を開放することなのだ。
そのときの自分に必要な本と出会えたなら人生をも変える。
時空を超えた出会いがそこにある!

国語力をつけるなどという俗な目標など捨てて本気で読書をするならば、
ひょっとすると国語力というおまけもついてくる、そう考えてほしい。

間違い探し

コロナ自粛中でどこにも行けない休日、
気晴らしにいくつか携帯ゲームにも挑戦した。
もともとはRPGの方が好きなのだが
短時間でとりかかれるものの中に
二つの画面の違いを見つけるものがあり
隙間の時間に次々と進めてみたのだ。

毎回5つの違いを探すのだが
簡単にクリアできるものもあれば
なかなか難しい問いもあり、
時にヒントを利用しながら
気づけば2000以上の問いをこなしていた。
しかも慣れてくるとかなり短時間で見つけることができる。

さすがに飽きてしまって今はやっていないが
最中、どうしてこうも簡単なものですら見落としてしまうのかと
驚き呆れたことが何度もある。
自分の感覚だけで見ていると何度見ても同じに見えて、
答えがわかれば見落としていたことの方が不思議なほど
容易でクリアに見えてくるのである。

そう考えると、私たちが日常見ているものなど
間違いだらけのものかもしれない。
宇宙規模からすると私たちの生きている世界はもとより小さいのに
その中で勝手な思い込みでわかった気でいることが多いだろうに・・・
人間というのは非力で独りよがりのものである。
せめてもその自覚だけはもち、謙虚にいたいものだ。











こころとからだ

「こころとからだのベストパフォーマンス」の心と体は
なぜひらがななのかな?という問いをもらった。
一言では言えないが、それにはわけがある。
まず「ひらがな」の持つ自由なイメージだ。
漢字で書くと文字の意味が発想に縛りをかけるが
ひらがなとなると響きにも比重が動き、受け手のイメージを広げる。

心と体は時に対のように示される。
しかも、心は体の中にある、そういった感覚で捉えている。
しかしながら、実際「からだ」の境界はどこにあるのか。
肉体といえば明確になるが、「からだ」の感覚は人によって違う。
心は脳の働きともいわれるが、今まだ研究途上だ。
自分の中の「こころ」を追究していけば、それは宇宙にまで広がることもある。

「こころ」と「からだ」を考えることは人間を考えることだ。
人間を知ろうとすれば、まず自分自身をみつめることだ。
とっつきやすくベストパフォーマンスと片仮名文字を使ったが
目指しているのは、古来からの哲学である。
コロナ禍で人は多くのことを考える機会を得たともいえる。
「最善のこころとからだ」を未来につなげるよう人類は期待されているに違いない。







ブログ開始にあたって

私は一中に教諭として、また、教頭として勤務していた。

その教頭時代の6年間、「一中だより」の僅かな余白スペースに
コラムのような文を毎月書いていた。
限られた文字数での、学校便りという制約の中での自由を糧として、
小さな自己表現を続けていたのである。

この春から校長として勤めることになったのを機に、
当時「陰陽記(いんようき)」と名づけていたコラムを
ブログという形をとって再開してみようと思う。

時折過去のコラムも再掲載していきながら、マイペースで進めていくので
ちょっとして息抜きに読んでいただければありがたい。

既存の「一中ブログ」は今後も写真を掲載し、
学校の様子を垣間見ていただけるよう教頭や首席が更新していくので
併せてご覧いただければと思う。

 

以下は、「陰陽記」の名前にまつわる過去コラムである。
少しかたいスタートになるがご容赦を。

 

 

 ノーベル賞をもらった益川理論の難しいことはよくわからないが、恐ろしく横着に言えば「宇宙の始まりビッグバンでできた物質は、全て対になっているはずだったが、その中に一つだけ違うものがあり、それが全ての宇宙のありようを決定づけた」というものらしい。
 実は物理学は東洋哲学と大きな類似点をもつ。このコラム名にもなっている「陰陽」の世界もまた、陰と陽が全く二極バランスよく半々になっているのではない。よく見かける黒と白の円で表されているマーク(下図)には、黒の中に白、白の中に黒が存在している。これは互いがバランスを崩しても常にどちらかがなくなることなく自由自在に動くことができる、ということを表現している。何かしらのアンバランスが新しい動きを作り出すということだ。
 人もまた然り。全く左右対称の顔は何か物足りない人工的な顔になるらしい。そう考えれば、世の中のあらゆる生命体が個々にみな違うのは、そこから生まれる創造の産物が何者かに期待されているということだろう。

                     (平成21年5月)

               陰陽マーク イラスト 無料 に対する画像結果
ギャラリー
カテゴリー
  • ライブドアブログ