陰陽記2

昔は教師といえば「聖職」であったがそれを求められるのは荷が重いかもしれない。
だが、教師という仕事がとても重要で大きな使命を担っていることは変わらない。
そして、それは自分の生き方が全面的に表れるものである。
仕事に優劣はないが、教師の仕事は教え育てるという大役だ。
その教師自身が、こどもに恥じない生き方をしていくべきだと思うのは
私だけでなく多くの保護者の願いでもあろう。

こどもに向かって話すことはそのまま自分に返していく。
生徒にだめだと叱ることは教師もしてはいけない。(頭髪など大人としてできることは別である)
そんな当たり前のことが通る教師集団でありたい。
ことの善悪を論じるとき、人によって価値が様々だという人がいる。
だが世の中にはルールがあり、また、もっと根本に人道がある。
人を殺してはいけないことがルールであるわけがない、だめなものはだめなのだ。

本校では「ふたつのじりつ」ができることを大人になることの目標としている。
一つは「自律」、自分でものごとの善悪を判断できて、自分の感情をコントロールできることだ。
もう一つは「自立」、自分のできることは自分できちんとやり遂げる力だ。
教師もこのふたつのじりつを達成し、こどもに誇れる生き方をしたい。
私たち教職員に「ふたつのじりつ」が欠けているときは遠慮なく伝えていただきたい。
自己反省することも又「じりつ」の基本的姿勢である。

私の場合は「仕事人」であること=「教育者」であった。
少なくともこの仕事を続けている限りはその自覚をもっていたい。
生徒にとって学校は一つの模範社会である。
実際の社会はもっともっと厳しく汚く辛いことが多い。
だからこそ、「教育者」である私たちは「彼らがめざすべき理想の社会」を学校で示す必要がある。
それが私たちの大きな仕事のひとつであり生き方であると私は考えている。




仕事とは何かと問われたら、私自身と答えるほど
私にとって自分が「仕事人」という意識は強い。
対することばが「家庭人」やら「遊び人」やら思い浮かぶが
良し悪しの問題ではなくどれもこれも私には縁遠い言葉なのだ。

前回私が「病人」として生きていると書いたが
それと同じくらい大きく比重を占めているのが「仕事人」の私である。
私はこどものころから、親に自立することの大切さを言われてきた。
家庭が裕福でなかったこともあったと思う。

私は担任をしている頃も通院を必要としていた。
生徒は私の心をわかっているのか
私の不在時に問題を起こすことは決してなかった。
それに助けられて私は仕事を続けてこられた。

保護者からもそれにまつわる苦情は一切なかった。
生徒ともに私を理解し、私のできる範囲での仕事ぶりを
しっかり評価してくださったからだと感謝しかない。
おかげで私は「病人でも働けるという一つの教材」として教壇に立てた。

管理職にならないかと当時の教育長から打診があったときも
病気であることを包み隠さずお伝えしたが
彼はそんなことは問題ではないとおっしゃってくださった。
彼自身が病気と闘いながら働いておられたのだ。

私は病気を抱えていても自立できる社会を望んでいる。
ここのところ池江選手が白血病を患ったのちの大きな活躍をみせているが
彼女の功績は、すばらし競泳の結果はもちろん、
でもそれよりももっと大きなことにあったと思う。

以前よりもメンタルが強くなったと彼女は言う。
また、何番であっても(大会の場に)いられるだけで感謝しようと思ったとも。
彼女のこういった精神は多くの「病人」が持っているいわば病人魂だ。
それを広げてくれた彼女に私は心からの感動をもって拍手した。

病気だけでない、障がいのある人々も、そのほか事情があっても
本人が何かを前向きに取り組みたいと思ったときに
それを少しでも支援できるような学校や社会を創りたい。
だから私にとって「仕事人」というアイデンティティはとても重要なのである。






自分が病気を患っていることや既往症があることを秘密にする人もいるが
私は特に自分が「病人」であることを隠してはこなかった。
というのも、私は病気によって留年し高校に4年間在籍していたので
その後の履歴書にも如実に表れているからかもしれない。
私は以来ずっとあちこち病気に見舞われて今に至る。
一見すると何事もないように見える私の体は
「もうお前は死んでいる」状態の箇所を随所に抱えながら成り立っている。

16歳の時からなので、当然心には紆余曲折の葛藤があった。
今ではファイバーで容易い手術も当時は大掛かりな手術だった。
高校生で体に大きな傷が残ることを嫌がった私に
ある看護師が「自分の命を守るためについた傷は誇りである」と話してくれた。
一年間の留年が決まった時、誰も気持なんかわかるはずがないと拗ねる私に
主治医が「私はわかります」と自分も病気で留年し
その後に同じような人々の助けになりたいと医者を志したことを淡々と語ってくれた。

友人たちが卒業したあとの高校生活は私にとって楽しいものではなかったし
いい思い出は全くといっていいほどない。
それでも何とか辞めずに卒業した日には自分自身を褒めてみた。
しかしながらその後も病気とは片時も離れることはできず
私は数々の病気とともに生きていくことになる。
私の病はすぐに死に直結するようなものではない。
それゆえに一層はた目にはわかりにくく状況は複雑だ。

「病は気から」ということばがあるが、とんでもない。
気持ちで治せるなら、気の強い私にこれだけの病気は居座らないだろう。
いくつもの病気を経験した私の見解として
病気に楽なものはない!というのが結論である。
私は無差別に傷んでいく自分の体を
なかなか受け入れることができずに人生を過ごすことになる。
自分を丸ごと受け入れるとはどれほど難しいことか。

人は弱いところがあるから人の痛みがわかるというが
そんなことはどうでもいいから健康な体をよこせと思い
若かりし頃には親にもひどいことばを投げつけたことも。
さすがに年を重ねていくにつれて観念はしたが
激しい痛みがあれば弱音のひとつも吐きたくはなる。
それでも多くの人々に支えられて
私はこれからも「病人」というアイデンティティを持ち続けていく。


  
  昨年度後半は病のためにご心配をおかけいたしました。
  あらためてここにお詫び申し上げるとともに
  今年度一層学校運営に邁進していく所存です。
  ご理解とご協力をよろしくお願い申しあげます。













③「率先避難者たれ」

実のところ、三原則で最も心に残ったのはこれであった。
恐らく私が人生においてかなり苦手とすることだからだろう。

私は桜の散る様を潔いと愛でる類の人間である。
勝負は正攻法を好み、人を陥れるなどもってのほか、
卑怯な手を使って勝つくらいなら負ける方がましだ。
よって逃げることも好まず打ちのめされても耐えることを選んできたように思う。

そのために不要なダメージをくらったり
心身を削って満身創痍で日々を過ごすこともある。

もちろん相手が威風堂々としたものならば
圧倒的な力の前に敬意を払って最初から負けを認めることができる。
だが明らかに間違っているのに勝ちを気取られると
こちらも戦わざるをえないと腹をくくってしまう。

しかしながら「逃げるが勝ち」ということばがあるように
人生には逃げることを選択することが結果的によかったと思えることがあるようだ。

まあ何もかもがほどよいバランスで、逃げることしかしないのはこれまた疑問だが
私は自身の信念を曲げたくないために
振り返ってみれば「火中の栗を拾う」ことの多かったこと、
後悔はしていないが愚かだといえばそうかもしれない。

誰かと比較してより早く逃げる者というのではなく
これからは自分の中に「率先避難者」を在住させておこうと思う。

天災に戦いを挑むことが無意味であることはわかっていた。
だが「命を守る」ということだけに焦点を当てれば
天災に限らず何事も戦わずに逃げる(その場から立ち去る)ことのみが正解なのだと
あの防災の日に再認識したしだいである。

耐える価値もない落とし穴ばかりの道ならば
さっさと立ち去り他の道を歩く方が格段に賢明で意味がある。


最近自殺の報道が多い。「率先避難者たれ」




①「想定にとらわれるな」

危機対応はいろいろなケースを想定して準備しておくことが大切である。
が、同時に、想定していたことがいつも正しいとは限らない。
何かが起こったとき、自分の経験則だけで判断するのではなく
「今、そのとき」の直感や判断を信じて行動することが必要な時がある。
世の中の事象は無限の可能性があるのだから
誰もが思ってもみない出来事に必ずどこかで遭遇するだろう。
その瞬間答えを出すには、今まで培ってきた自分を信じるしかない。
揺らぎなき自己肯定感が試されることになる。
そのときその場で何が必要なのか現場にいない他の誰にも委ねることはできない。
自分自身で決めるのだから、その結果に自分自身で責任をとる潔さも必要だ。
人生にはそんなとんでもない選択を迫られることが必ずあるものだ。
想定しておくけれども想定にとらわれない、そこのところが人生難しということか。



②「その状況下において最善を尽くせ」

(「陰陽記」平成22年12月記事より)
遅ればせながら映画「カイジ」が最近のマイブームで、
漫画で連載されているというのでレンタルで42冊を一気に読み終えた。
言っておくが情感ある文芸書でもないし、教育的道徳本のようなものでは全くない。
ただ、主人公にある不屈の精神に共感したのである。
要は勝負に臨むとき、自分の置かれた状況がどんなに不利な状況にあったとしても
最後まであきらめずに手持ちのものでなんとか切り抜けることを考える力である。
わかってはいるが人間はもうだめだと思って気持ちがなえてしまうと、道は終わってしまう。
だから最後の最後まで戦い抜くのである、道はまだあるはずだと。
私は高校時代から多くの病気にさいなまされてきた。
何度も自分の体を嫌悪し、健康なものをねたましくさえ思った。
だが、何年もかけて到達したのは、
自分に残された健康な部分でできるところまではやるという精神だ。
そういう意味でこの独特なタッチの「カイジ」はかなり私の激励歌となった。
何事もこの意気だ。受験もクラブもこれからの人生もぎりぎりまで諦めるな!



③「率先避難者たれ」 については後日に・・・

「陰陽記」平成21年6月記事より

人間は一生の中で一度は戦争を体験せざるをえない、
そんなことばを聞いたことがある。
人の愚かさを嘆いたことばだろうが、そうであれば、
私が生きている間にも戦争が起こってしまうことになる。
万一そんな事態になれば、今度はもう人類は滅亡してしまうのだろう。
広島や長崎の声は届かないまま?

新型インフルエンザが世界に蔓延して、
人類はウイルスの脅威を恐れている。
強毒化すれば多くの死者を生むということだから、
警戒して当然であろう。
だが、戦争の脅威もまたウイルスと同様に、
私たちのすぐそばにあることを忘れてはいけないと思う。
何事も非常事態になってからでは、
時すでに遅し、ということになろう。

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当時は「新型インフルエンザ」だったが
「コロナウイルス」と置き換えても通じる内容。
10年ほど前の文章であるが、今も健在のようだ。






コロナで非常事態宣言が出されていた最中
あるニュースを聞いて考えこんでしまった。
あちこちで自然の動植物が戻ってきている、というのだ。
人間が出歩かなくなった結果である。
環境破壊については平時より問題になっているが
コロナが広がることで人々の活動が抑え込まれ
地球の本来のエネルギーが発揮されるとは・・・
理解できても何とも皮肉なものである。

昔、人間を守るウルトラマンと地球を守るウルトラマンの対立シーンがあった。
人間を守ると地球の一部を壊してしまうこともある。
地球を守ろうとすると人間の存在が邪魔にもなる。
ウルトラマンは協力して地球と人類どちらも守っていくことを目指すのだが
果たして現実にはこの二つは両立するのだろうか。
非常事態宣言の解除によってあちこちに繰り出す人間を見て
残念がっている生物たちも多くいるのではないだろうか。
ウルトラマンのように短時間では答えは出そうもない。

先日知床でクマと共存する老人が、人間もまた自然の一部であると力説していた。
当たり前のようですっかり忘れている感覚だろう。
畑を荒らされるからと山から下りてきた生物を追い払い
都合のいい時だけ自然を求めるのは利己的すぎるといったところか。
地球上で食物連鎖の頂点にいる(かのような)人類は
他の生物に食べられるという恐怖を味わったことがない。
そんな中、コロナ感染で私たちは「喰われる恐怖」にさらされている。
自然の一部であることを再認識して他と共存していくことは喫緊の課題かもしれない。

自然には「しぜん」と「じねん」といった読み方があるが
無為自然といった考え方は後者の「自然」に当たる。
「自ら然らしむ(みずからしからしむ)」、なされるがままの状態というものだが
そこには「生かされている」という謙虚な気持ちがある。
地球の声に耳を傾け、なすべきことをなす、
「無為」とは何もしないことを意味しているのではなく
余計な作為的なことをしないという意味である。
それがなかなか難しい。

まもなく夏休みがやってくる。
今年の格段に短い夏休みは、地球の声を聞きながら
無為自然と過ごすことに専念したいと思う。















よく国語力をつけるために本を読めという人がいるが
誤解を恐れずに言えば、それは少し違うのだ。

バットの素振りをイメージしてほしい。
確かに素振りの回数を増やせば、それはそれで意味がある。
でも適切なコーチにアドバイスをもらって練習すれば
少ない回数でも効果的な振り方を習得することができる。
ひたすら素振りをすることで少しずつ自分の方法を見つけることもできるが
それにはかなりのセンスと才能も必要だ。
本を読むという行為もそれに似ている。
読書という一見だれでもできる行為が簡単なものではないことは
苦手な人はより実感していることではないだろうか。
得意なものはバットをボールに当てるように振ることは容易だろうが
私であれば多くの時間を費やすことだろう。

本を読むことの醍醐味は「出会い」を得ることである。
古代の哲学者から現代のアイドルまで
こちらが望めば、みな門戸を広げて膝を突き合わせてくれる。
心の悩みを相談することもできるし、自分の考えと同じだと喜ぶこともある。
知らなかったことを教えてもらえたり、
時にはそれは違うだろうと疑問に思うこともできる。
また、作者の創った世界に降り立つことで
現実とは違う環境や人生までも味わうこともできるのである。
読書は自分の世界に閉じこもることでなく心を開放することなのだ。
そのときの自分に必要な本と出会えたなら人生をも変える。
時空を超えた出会いがそこにある!

国語力をつけるなどという俗な目標など捨てて本気で読書をするならば、
ひょっとすると国語力というおまけもついてくる、そう考えてほしい。

コロナ自粛中でどこにも行けない休日、
気晴らしにいくつか携帯ゲームにも挑戦した。
もともとはRPGの方が好きなのだが
短時間でとりかかれるものの中に
二つの画面の違いを見つけるものがあり
隙間の時間に次々と進めてみたのだ。

毎回5つの違いを探すのだが
簡単にクリアできるものもあれば
なかなか難しい問いもあり、
時にヒントを利用しながら
気づけば2000以上の問いをこなしていた。
しかも慣れてくるとかなり短時間で見つけることができる。

さすがに飽きてしまって今はやっていないが
最中、どうしてこうも簡単なものですら見落としてしまうのかと
驚き呆れたことが何度もある。
自分の感覚だけで見ていると何度見ても同じに見えて、
答えがわかれば見落としていたことの方が不思議なほど
容易でクリアに見えてくるのである。

そう考えると、私たちが日常見ているものなど
間違いだらけのものかもしれない。
宇宙規模からすると私たちの生きている世界はもとより小さいのに
その中で勝手な思い込みでわかった気でいることが多いだろうに・・・
人間というのは非力で独りよがりのものである。
せめてもその自覚だけはもち、謙虚にいたいものだ。











「こころとからだのベストパフォーマンス」の心と体は
なぜひらがななのかな?という問いをもらった。
一言では言えないが、それにはわけがある。
まず「ひらがな」の持つ自由なイメージだ。
漢字で書くと文字の意味が発想に縛りをかけるが
ひらがなとなると響きにも比重が動き、受け手のイメージを広げる。

心と体は時に対のように示される。
しかも、心は体の中にある、そういった感覚で捉えている。
しかしながら、実際「からだ」の境界はどこにあるのか。
肉体といえば明確になるが、「からだ」の感覚は人によって違う。
心は脳の働きともいわれるが、今まだ研究途上だ。
自分の中の「こころ」を追究していけば、それは宇宙にまで広がることもある。

「こころ」と「からだ」を考えることは人間を考えることだ。
人間を知ろうとすれば、まず自分自身をみつめることだ。
とっつきやすくベストパフォーマンスと片仮名文字を使ったが
目指しているのは、古来からの哲学である。
コロナ禍で人は多くのことを考える機会を得たともいえる。
「最善のこころとからだ」を未来につなげるよう人類は期待されているに違いない。







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