陰陽記2

毎年学校には飼育動物の調査がくる。
いつも答えは一緒で、動物を飼っていないと答える。
今は殆どの学校が飼育動物がいない。

私が子どもの頃は多くの主に小学校には動物がいた。
うさぎと鶏といえば定番で
豚なども飼育されていたと聞く。

夏休みには当番制で小屋の掃除と餌やりがあるが
とにかく鶏の世話が怖かったのも
今となればひとつの思い出となっている。

アレルギーや感染症などで飼育をやめる学校が増え
家で生物を飼っていないと
なかなか生き物に触れる機会は少ないだろう。

と思っていたところに
今朝学校玄関の貯水にいる金魚を見て楽しそうに話している生徒がいた。
聞けば金魚に名前を付けて鑑賞しているらしい。

区別がつくのかと尋ねたら
4匹ほどだが見分けられるということである。
なんだかうれしくなった。

次回の飼育動物の調査には
金魚を飼っていると記そうと思う。
餌やりしながら名前も教えてもらいたいものだ。











この夏はパラリンピックに熱い私だ。
今までじっくり観戦してこなかったので
学ぶことが多すぎた。
まだ観ていない人は閉会までにぜひ観てほしい。

何が面白いって
それぞれが自分の障がいと向き合って
自分にふさわしい動きや戦い方で最善を尽くす姿勢が
人生そのものだというところだ。

またガイドランナーやタッパーたちの
選手と限界まで寄り添った姿勢には
相手を理解し共にに生きるといった
私たちへの課題を突き付けられた気がした。

映像に映されるどの人々も
互いを尊重したやりとりと思いやりに満ちていて
一種の理想郷のような印象さえ受けた。
人々を自然と優しい気持ちにさせる空間だったのだろう。

ただここに登場する選手たちは
様々な苦難を乗り越えてきた「英雄(ヒーロー)」である。
今も私たちの身の回りにいるであろう
困難の最中にいる人々を支えることができるとき
パラリンピックの精神が本当に理解されたといえるだろう。






日本はジェンダー格差121位。
G7中では最も低く世界でも意識の遅れた国であり
まだまだ改善には時間がかかりそうである。

日本は女性の地位向上が著しく遅れている。
以前大学の合格者数で男子が少なくなるという理由で
女性の合格者を不合格にするという大学もあった。
女性であるというだけでキャリアにはハンディがある。
数だけ見ても日本全体のリーダーの女性の数は少ない。

教諭時代にはあまり意識しなかったことであるが
管理職になると大きく意識させられるのが男女格差である。
大阪府の中学校校長研修などで集まると女性の少ないことに驚く。
トイレは空いていてありがたいのだが
こんなにも差があっていいのかと懸念する。

私がはじめて教頭になったときは
訪問される方の中には明らかに「女か」といった態度をしめす人がいた。
それでも何年も勤めているとそのうちに認知されるようになった。
ところが校長になるとまた同じようなことが起こる。
ここはいつの時代のどこなのかと思わざるを得ない。

差別というものはもともと被差別者でないと実感しにくいのだろうか。
男であれば「強いリーダーシップ」で「きめ細やか」となるものが
女であれば「独善的」で「細かすぎる」となる。
女性に対して世間が厳しすぎると思うのは少数派ではないはずだ。
しかしながら又よく女性の敵は女性ということも言われる。

女性同士が「敵」となるのは社会のマイナスでしかない。
それぞれの境遇を理解して、未来に活躍する子どもたちが
これ以上女性だからと差別を受けない世の中にしたい。

某市長のメダル事件も相手が女性だったからだと囁かれている。
まんざら否定できない現実であろう。
日本のジェンダー平等化は始まったばかり。











実は私の夢の一つに「宇宙から地球を見る」というものがある。
大人になってから抱いた夢なので
宇宙飛行士になるといった具体的なものではない。
実際自分の目で見る地球はどんな輝きを見せるのか
そして宇宙という広い世界に投げ出されて
人は何を思うのか、そんな未知なるものへの期待がある。

宇宙から見れば地球は本当に小さな星の一つであるし
国境などない小さな地上が並ぶ中、これまた小さな島国があるわけだ。
そしてそこに人が多くひしめいているのである。
宇宙の広さを思えば人の抱えている悩みがどれほど小さなものか痛感するという。
悠久の宇宙時間で言えば、人の人生など瞬きにも相当しない。
それなのにこうもいろいろと悩みの多い世の中だ。

宇宙に行けるなら全財産をはたいていいと思うが
アマゾンの打ち上げる飛行船の一席が
30億だったと聞いてため息が出た。
たった100キロ程度上空で10分滞在するだけでこれだ。
万人が無重力を楽しみながらぷかぷかと宇宙の景色を楽しむのは
私の生きている間には無理なのだろう。

ということでなかなか悟りの境地にはなれない。








終業式で夏休み中に二つの「やってみよう」の話をした。

一つは「夏休みにしかできないことに挑戦する」である。
こう言うと何か特別なことを探そうとするが小さなことでいい。
いつもは気が付かなかった通学路の草花を愛でてみる、
少し早起きして日の出を味わってみる、
家事を分担して掃除や洗濯に勤しんでみる、
そして究極は何もしないでぼうっと一日過ごしてみる等など。
こんなことをしていいことがあるのかと思うだろうが
新しい自分に出会うことはそれだけで大きな価値がある。
もちろん大きな課題を自分に課すのもいいだろう。

もう一つは「平和について考えてみる」だ。
平和が大事とか戦争はよくないと思っていても
悪いとわかっているのに戦争はなくならない。
核爆弾だって世界に13400基もある。
平和のために必要だっていうけれど本当にそうなんだろうか。
いじめがなくならないのと同じ類の疑問がわく。
そして毎日世界平和を考えている人はこの平和な日本にはなかなかいないだろう。
夏休みには原爆投下の日や終戦の日がやってくる。
平和を考えるにふさわしい季節ではないか。

提出不要の宿題だが、少しでも取り組んでくれるといい。












梅雨が明け、今朝は蝉の大合唱に迎えられての出勤となった。


以下『陰陽記』過去記事より==========


セミは長い幼虫期を土の中で過ごし成虫になってから一週間ほどで死んでしまう。
それを知った幼き私は、かわいそうだと泣いたそうだ。
そんな私もセミが一堂に会している木の横を
うるさげに早足でとおり過ぎる大人になってしまった。

先日17年も土の中にいるセミがいることを知った。
17年といえば人間では生まれてから高校生にもなる。
土の中の孤独な生活はひとつの哲学を作り出すのに十分な環境だ。
あの「蝉の声」にはやはり「岩にしみいる」力があるのだろう。

一方、人間はどうなのか。
最近の高校生は同じ歳月どれほどの物事を考えてきているのだろう。
情報が氾濫する世界では思索することが難しくなっている。
携帯が普及してなおさらその時間は奪われた。

世の中がそうならば自ら時間を生み出すしかない。
思索するには自分と静かに向き合う時間が必要だ。
携帯の電源を切るなりテレビを消すなり自分の意思が試される。
それは強制的に土の中にいることより困難なことかもしれない。





前日記事にした職員写真、
マスクを外した写真に気づいた生徒は「思った顔じゃない!」
「がっかり・・・」「かわいいー」などなど、様々な感想を口々に、
楽しげにマスクのこちら側をのぞいていた。


以下『陰陽記』過去記事より============


顔を変えて逃亡するという小説のような話が話題になっているが、
「顔」とは不思議なものだ。みな似ていて異なる顔を持っている。
どんなに風貌が似ていても顔をよく見れば多くは別人だと捉えることができる。
だからこそ整形逃亡も成立したわけだ。

一方、私たちは鏡に映った自分の姿を自分自身だと認識している。
誰しも自分の顔を一生に一度も実際に見ることができない。
自分の見ているそれは、他者が見ているものとは別のものかもしれないのに
それを自分の顔だと思いこんで生活している。
考えてみれば常に他からの視点でしか自分を見ることができないのだ。
顔ひとつとってもこれなのだから
自分自身を知るということがいかに難しいかとあらためて思う。

過日捕まった整形容疑者について
ある人が「顔を幾度変えても、彼は鏡に映った自分を見て
以前と変わらぬ自分の顔を見ていたのだろう」と語っていたそうだ。
人はそれぞれ何を「自分」とみなしているのだろうか。
           




世界的な超有名なミステリー作家がいる。
先月、ある生徒が英語でファンレターを出したところ
その返事が返ってきたというのだ!
生徒は自分の英語が伝わったこともだが
それによって「つながる」ことができたことを
心から喜んでいたらしい。

語学そのものを研究対象に学ぶ人もいるが
多くはコミュニケーションの手段として使っている。
そのうち超高性能でイヤホン的な翻訳機が出てくれば
それで会話をすればいいやと英語の学習を後回しにしている私は
語学そのものより、何を伝えてたいのか、どう話したいのか
つまりは話すべきものを思考できているかの方が気になる。

スマホやタブレット等のICT機器然り。
便利で万能のようであるが
それを使うことが目的ではなくて
あくまでも手段であることを理解していないと危険だ。
英語もいくらすらすらと話せても
中身がなければ人とのつながりを生み出せない。

先に書いた英語のファンレターの内容は知らないが
きっと文面には本を愛する心や
彼の作品への熱い思いが表れていたに違いない。
そしてきっと完璧でないだろう英語に込められた
奥にある彼女の気持ちが伝わり返信が届いたのだろう。
直筆の返信からは今度は彼の感謝の気持ちが伝わってきた。


梅雨の時期にポピュラーな紫陽花は
古典和歌では随分不人気な花だったと聞く。
色が変わりやすく実を結ばないことから不実の花とのイメージが強かったらしい。
「七変化」なる呼び名もある。
しかしながら幼き頃❛でんでんむし❜をかばいながら咲いている紫陽花は
雨の中でもたくましく生きる力強い花に思えたものだ。

それゆえなのか花言葉も「移り気」「浮気」「元気な女性」と様々だ。
「あなたは冷たい」「高慢」「辛抱強い愛」といったものもあり
葉の毒性から危険な女性をイメージさせたのかもしれない。
といっても棘のある華やかなバラとは違った印象の地味な花である。
これからも当分続く雨の日には
他とは違う紫陽花の密やかな高慢さにちょっと足をとめてみるのもいいだろう。

「美しき球の透視をゆめみべくあぢさいの花のあまた咲きたり」(葛原妙子作)


(『陰陽記』平成24年7月記事より)





できるだけ多くの問題を解け、というのはすべての教科にあてはまるとは言えない。
国語に関していえば、できるだけ詳細に解けというのが適切かもしれない。
数多く解かずとも、ひとつの例題から多くを学ぶことができる。

例えば問題に出ている中の語句でわからないものがあれば調べてみる。
漢字や読み方を練習して、余裕があれば対義語など探してみる。
代名詞が何を指すのか、接続詞は順接か逆説か、
段落ごとの要約や段落の構成を考えてみてもいい。
文法が苦手なら、単語に区切って品詞を分類するのも悪くない。
表面的なものだけでもまだまだ問いはできあがる。
読解問題を作れるようになったらかなりレベルが高い。

最も大事なのは、なかなか難しいが「問題文を楽しんで読む」ということだ。
登場人物の背景や心情に心を巡らせて楽しんで読む。
そのためには普段から多くのことに興味をもつことだ。
なんであれ、初めて触れる文章を読むときにはエネルギーがいる。
その力を生み出すのは好奇心である。
説明文ならば知識が豊富になるし小説なら人の心理が追求できると思えばいい。
そうやって問題文をエンジョイできればその問いは制覇したといっても過言ではない。

私はかつて問題の文章でおもしろいものは
出典が記してあるものは元本を探して文章全部を読んでみた。
そのおかげで随分読書のジャンルが広がったものだ。




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