陰陽記2

終業式で夏休み中に二つの「やってみよう」の話をした。

一つは「夏休みにしかできないことに挑戦する」である。
こう言うと何か特別なことを探そうとするが小さなことでいい。
いつもは気が付かなかった通学路の草花を愛でてみる、
少し早起きして日の出を味わってみる、
家事を分担して掃除や洗濯に勤しんでみる、
そして究極は何もしないでぼうっと一日過ごしてみる等など。
こんなことをしていいことがあるのかと思うだろうが
新しい自分に出会うことはそれだけで大きな価値がある。
もちろん大きな課題を自分に課すのもいいだろう。

もう一つは「平和について考えてみる」だ。
平和が大事とか戦争はよくないと思っていても
悪いとわかっているのに戦争はなくならない。
核爆弾だって世界に13400基もある。
平和のために必要だっていうけれど本当にそうなんだろうか。
いじめがなくならないのと同じ類の疑問がわく。
そして毎日世界平和を考えている人はこの平和な日本にはなかなかいないだろう。
夏休みには原爆投下の日や終戦の日がやってくる。
平和を考えるにふさわしい季節ではないか。

提出不要の宿題だが、少しでも取り組んでくれるといい。












梅雨が明け、今朝は蝉の大合唱に迎えられての出勤となった。


以下『陰陽記』過去記事より==========


セミは長い幼虫期を土の中で過ごし成虫になってから一週間ほどで死んでしまう。
それを知った幼き私は、かわいそうだと泣いたそうだ。
そんな私もセミが一堂に会している木の横を
うるさげに早足でとおり過ぎる大人になってしまった。

先日17年も土の中にいるセミがいることを知った。
17年といえば人間では生まれてから高校生にもなる。
土の中の孤独な生活はひとつの哲学を作り出すのに十分な環境だ。
あの「蝉の声」にはやはり「岩にしみいる」力があるのだろう。

一方、人間はどうなのか。
最近の高校生は同じ歳月どれほどの物事を考えてきているのだろう。
情報が氾濫する世界では思索することが難しくなっている。
携帯が普及してなおさらその時間は奪われた。

世の中がそうならば自ら時間を生み出すしかない。
思索するには自分と静かに向き合う時間が必要だ。
携帯の電源を切るなりテレビを消すなり自分の意思が試される。
それは強制的に土の中にいることより困難なことかもしれない。





前日記事にした職員写真、
マスクを外した写真に気づいた生徒は「思った顔じゃない!」
「がっかり・・・」「かわいいー」などなど、様々な感想を口々に、
楽しげにマスクのこちら側をのぞいていた。


以下『陰陽記』過去記事より============


顔を変えて逃亡するという小説のような話が話題になっているが、
「顔」とは不思議なものだ。みな似ていて異なる顔を持っている。
どんなに風貌が似ていても顔をよく見れば多くは別人だと捉えることができる。
だからこそ整形逃亡も成立したわけだ。

一方、私たちは鏡に映った自分の姿を自分自身だと認識している。
誰しも自分の顔を一生に一度も実際に見ることができない。
自分の見ているそれは、他者が見ているものとは別のものかもしれないのに
それを自分の顔だと思いこんで生活している。
考えてみれば常に他からの視点でしか自分を見ることができないのだ。
顔ひとつとってもこれなのだから
自分自身を知るということがいかに難しいかとあらためて思う。

過日捕まった整形容疑者について
ある人が「顔を幾度変えても、彼は鏡に映った自分を見て
以前と変わらぬ自分の顔を見ていたのだろう」と語っていたそうだ。
人はそれぞれ何を「自分」とみなしているのだろうか。
           




世界的な超有名なミステリー作家がいる。
先月、ある生徒が英語でファンレターを出したところ
その返事が返ってきたというのだ!
生徒は自分の英語が伝わったこともだが
それによって「つながる」ことができたことを
心から喜んでいたらしい。

語学そのものを研究対象に学ぶ人もいるが
多くはコミュニケーションの手段として使っている。
そのうち超高性能でイヤホン的な翻訳機が出てくれば
それで会話をすればいいやと英語の学習を後回しにしている私は
語学そのものより、何を伝えてたいのか、どう話したいのか
つまりは話すべきものを思考できているかの方が気になる。

スマホやタブレット等のICT機器然り。
便利で万能のようであるが
それを使うことが目的ではなくて
あくまでも手段であることを理解していないと危険だ。
英語もいくらすらすらと話せても
中身がなければ人とのつながりを生み出せない。

先に書いた英語のファンレターの内容は知らないが
きっと文面には本を愛する心や
彼の作品への熱い思いが表れていたに違いない。
そしてきっと完璧でないだろう英語に込められた
奥にある彼女の気持ちが伝わり返信が届いたのだろう。
直筆の返信からは今度は彼の感謝の気持ちが伝わってきた。


梅雨の時期にポピュラーな紫陽花は
古典和歌では随分不人気な花だったと聞く。
色が変わりやすく実を結ばないことから不実の花とのイメージが強かったらしい。
「七変化」なる呼び名もある。
しかしながら幼き頃❛でんでんむし❜をかばいながら咲いている紫陽花は
雨の中でもたくましく生きる力強い花に思えたものだ。

それゆえなのか花言葉も「移り気」「浮気」「元気な女性」と様々だ。
「あなたは冷たい」「高慢」「辛抱強い愛」といったものもあり
葉の毒性から危険な女性をイメージさせたのかもしれない。
といっても棘のある華やかなバラとは違った印象の地味な花である。
これからも当分続く雨の日には
他とは違う紫陽花の密やかな高慢さにちょっと足をとめてみるのもいいだろう。

「美しき球の透視をゆめみべくあぢさいの花のあまた咲きたり」(葛原妙子作)


(『陰陽記』平成24年7月記事より)





できるだけ多くの問題を解け、というのはすべての教科にあてはまるとは言えない。
国語に関していえば、できるだけ詳細に解けというのが適切かもしれない。
数多く解かずとも、ひとつの例題から多くを学ぶことができる。

例えば問題に出ている中の語句でわからないものがあれば調べてみる。
漢字や読み方を練習して、余裕があれば対義語など探してみる。
代名詞が何を指すのか、接続詞は順接か逆説か、
段落ごとの要約や段落の構成を考えてみてもいい。
文法が苦手なら、単語に区切って品詞を分類するのも悪くない。
表面的なものだけでもまだまだ問いはできあがる。
読解問題を作れるようになったらかなりレベルが高い。

最も大事なのは、なかなか難しいが「問題文を楽しんで読む」ということだ。
登場人物の背景や心情に心を巡らせて楽しんで読む。
そのためには普段から多くのことに興味をもつことだ。
なんであれ、初めて触れる文章を読むときにはエネルギーがいる。
その力を生み出すのは好奇心である。
説明文ならば知識が豊富になるし小説なら人の心理が追求できると思えばいい。
そうやって問題文をエンジョイできればその問いは制覇したといっても過言ではない。

私はかつて問題の文章でおもしろいものは
出典が記してあるものは元本を探して文章全部を読んでみた。
そのおかげで随分読書のジャンルが広がったものだ。




先月の5月19日に「平年」をあらわす数値が
10年ぶりに新しくなった。
よく天気予報で「平年より〇〇」という言い方をするが
この「平年」というのは過去30年の観測値の平均であり
それが10年ごとに更新されているといった具合だそうだ。

つまり益々温暖化で気温があがっているこの10年では
猛暑日が多く加味されて平均気温は確実にあがっている。
昔で言うととんでもなく暑い気温であっても
今では「平年並み」といった具合で表現されている可能性がある。
でも「平年並み」と言われるとなんだか許せる気もする。

何事も「平均」というものにはだまされやすい。
平均は当然ながらその集団によりけりで
これまた当たり前だが平均より上と下は必ず存在する。
平均点が高くても一部の高得点によるものかもしれない。
それなのに、テスト後一番に平均点を気にする人も多いのだ。

先月「平年」が変更したところだが、この6月は「平年より高い」気温の日が多い。
それでも10年後は「平年並み」の温度になっているのかもしれない。
「みなと同じ」「人並」確かなようで確かではない。
一番大切なのはその不確かな基準の中で大事なものを見極め、
自分の基準をしっかり確保していくことである。









以前「読書のすすめ」を書いたが
それでも本を読むのが苦手な人には
一度「対談」を読んでみることをお勧めする。

対談している人のどちらかは自分が関心を持っている人がいい。
もう一人は誰でもいいが、全然知らない人も面白い。
「対談を読む」ということは、その人たちの「おしゃべりに入る」ことだからだ。
たとえば友達と、その友達の友達が話している中に入っていると
普段の話題とは違った話が飛び交っていて興味をもつ。
話の輪には入れなくても聞いているだけでわくわくすることがある。

かくいう私はあまり対談なるものを読んでいなかったが
先日、臨床心理士であった故河合隼雄氏と
免疫学者である多田富雄氏の対談を読んで新しい関心を喚起させられた。
河合氏は生前何度か授業と講演などでお顔は知っているくらいだったが
多田氏は今回はじめて「お会いした」。
そしてそこで話題となっていた彼の著書が今私の手元にある。

今度は多田氏とゆっくり話をしたあとに
もう一度3人で「対談」をしてみるつもりだ。
きっと以前お邪魔したときよりは深く話ができるはずだ。









初対面の人同士がマスクをつけて挨拶をする。
そんな光景が普通になっている。
学校で生徒の目だけを見て教えるなどとは
ほんの少し前まで考えてもみなかったことだ。
生徒にしても学年教師の顔は給食のときなどで知っているだろうが
他学年の教師の顔は外であったら気づかないでいることだろう。

だが、これだけマスク生活が常になると
目や眉の表情だけで、なんとなく気持ちもわかるようになる。
声のトーンや瞬きなどでも気持ちが十分伝わってくる。
人は気持ちを推し量ろうとさえすれば
少しの情報でも多くをキャッチできるようになるものだ。
隠した気分でいる本心も本当は見透かされているかもしれない。

そうはいっても教師の顔を知ってもらう意味も込めて
実は今年度の教師の集合写真を校内に掲示している。
アルバム担当教諭が「令和3年度教職員一同」と見出しもつけてくれたが
今のところ生徒は気づいていないのか特に声があがってこない。
密になっても困るので、見つけた生徒はディスタンスをとりながら
マスクの向こう側にあった姿を確認してほしい。

春の太陽のあまりの眩しさに、みなが少し険しい顔した集合写真となっているが
本校教師の希望に満ちた表情を見ることができるはずだ。
当分の間、教職員の顔はひっそりとマスクの中に埋もれたままだろう。
写真の中ではみんないつ気づいてくれるかなと
マスクの向こう側から大勢の教師が呼びかけている。
みんなマスクのこっち側を見つけてくれるかなー。









蝶の夢、と書いたとき
見た夢なのか、蝶見た夢なのか、どちらを思い浮かべただろうか。

中国の思想家である荘子の「胡蝶の夢」はまさしくそのことを考えさせるものだ。
彼は蝶になって美しい花畑を舞っている夢を見るのだが
自分自身が蝶になった夢を見ているのか
それとも本当は蝶が見ている夢が自分の人生なのかと考えるのである。

物事は疑いだしたらきりがない。
だが何事もうのみにしすぎても思想の進歩はない。
もし今の人生が誰かの長い夢ならば、この私はどこにも実存しない存在なのだろうか。
あまりにも壮大な夢の主人公なのか、それとも転寝(うたたね)程度のものなのか。

一見するとどちらが本物かわからない、と言えば、
自分そっくりのアンドロイドを作っているのは大阪大学教授の石黒浩氏である。
彼はその究極の目的は「人間とは何か」を追求することだと述べている。
つまり自分と同じものができれば人間とは何かということを説明できるからだと。

彼はアンドロイドの研究が深くなればなるほど
ゴールは遠くなっていくのだと言う。
つまり「人間は何か」を追究すると、人がいかに複雑で奥深いかを痛感する。
古来より人間存在を考える哲学の夢はずっと覚めないでいる。

若者たちにはもっと「哲学の夢」を見てほしいと思う。









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