陰陽記2

2020年07月

コロナで非常事態宣言が出されていた最中
あるニュースを聞いて考えこんでしまった。
あちこちで自然の動植物が戻ってきている、というのだ。
人間が出歩かなくなった結果である。
環境破壊については平時より問題になっているが
コロナが広がることで人々の活動が抑え込まれ
地球の本来のエネルギーが発揮されるとは・・・
理解できても何とも皮肉なものである。

昔、人間を守るウルトラマンと地球を守るウルトラマンの対立シーンがあった。
人間を守ると地球の一部を壊してしまうこともある。
地球を守ろうとすると人間の存在が邪魔にもなる。
ウルトラマンは協力して地球と人類どちらも守っていくことを目指すのだが
果たして現実にはこの二つは両立するのだろうか。
非常事態宣言の解除によってあちこちに繰り出す人間を見て
残念がっている生物たちも多くいるのではないだろうか。
ウルトラマンのように短時間では答えは出そうもない。

先日知床でクマと共存する老人が、人間もまた自然の一部であると力説していた。
当たり前のようですっかり忘れている感覚だろう。
畑を荒らされるからと山から下りてきた生物を追い払い
都合のいい時だけ自然を求めるのは利己的すぎるといったところか。
地球上で食物連鎖の頂点にいる(かのような)人類は
他の生物に食べられるという恐怖を味わったことがない。
そんな中、コロナ感染で私たちは「喰われる恐怖」にさらされている。
自然の一部であることを再認識して他と共存していくことは喫緊の課題かもしれない。

自然には「しぜん」と「じねん」といった読み方があるが
無為自然といった考え方は後者の「自然」に当たる。
「自ら然らしむ(みずからしからしむ)」、なされるがままの状態というものだが
そこには「生かされている」という謙虚な気持ちがある。
地球の声に耳を傾け、なすべきことをなす、
「無為」とは何もしないことを意味しているのではなく
余計な作為的なことをしないという意味である。
それがなかなか難しい。

まもなく夏休みがやってくる。
今年の格段に短い夏休みは、地球の声を聞きながら
無為自然と過ごすことに専念したいと思う。















よく国語力をつけるために本を読めという人がいるが
誤解を恐れずに言えば、それは少し違うのだ。

バットの素振りをイメージしてほしい。
確かに素振りの回数を増やせば、それはそれで意味がある。
でも適切なコーチにアドバイスをもらって練習すれば
少ない回数でも効果的な振り方を習得することができる。
ひたすら素振りをすることで少しずつ自分の方法を見つけることもできるが
それにはかなりのセンスと才能も必要だ。
本を読むという行為もそれに似ている。
読書という一見だれでもできる行為が簡単なものではないことは
苦手な人はより実感していることではないだろうか。
得意なものはバットをボールに当てるように振ることは容易だろうが
私であれば多くの時間を費やすことだろう。

本を読むことの醍醐味は「出会い」を得ることである。
古代の哲学者から現代のアイドルまで
こちらが望めば、みな門戸を広げて膝を突き合わせてくれる。
心の悩みを相談することもできるし、自分の考えと同じだと喜ぶこともある。
知らなかったことを教えてもらえたり、
時にはそれは違うだろうと疑問に思うこともできる。
また、作者の創った世界に降り立つことで
現実とは違う環境や人生までも味わうこともできるのである。
読書は自分の世界に閉じこもることでなく心を開放することなのだ。
そのときの自分に必要な本と出会えたなら人生をも変える。
時空を超えた出会いがそこにある!

国語力をつけるなどという俗な目標など捨てて本気で読書をするならば、
ひょっとすると国語力というおまけもついてくる、そう考えてほしい。

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