陰陽記2

2021年04月

昔は教師といえば「聖職」であったがそれを求められるのは荷が重いかもしれない。
だが、教師という仕事がとても重要で大きな使命を担っていることは変わらない。
そして、それは自分の生き方が全面的に表れるものである。
仕事に優劣はないが、教師の仕事は教え育てるという大役だ。
その教師自身が、こどもに恥じない生き方をしていくべきだと思うのは
私だけでなく多くの保護者の願いでもあろう。

こどもに向かって話すことはそのまま自分に返していく。
生徒にだめだと叱ることは教師もしてはいけない。(頭髪など大人としてできることは別である)
そんな当たり前のことが通る教師集団でありたい。
ことの善悪を論じるとき、人によって価値が様々だという人がいる。
だが世の中にはルールがあり、また、もっと根本に人道がある。
人を殺してはいけないことがルールであるわけがない、だめなものはだめなのだ。

本校では「ふたつのじりつ」ができることを大人になることの目標としている。
一つは「自律」、自分でものごとの善悪を判断できて、自分の感情をコントロールできることだ。
もう一つは「自立」、自分のできることは自分できちんとやり遂げる力だ。
教師もこのふたつのじりつを達成し、こどもに誇れる生き方をしたい。
私たち教職員に「ふたつのじりつ」が欠けているときは遠慮なく伝えていただきたい。
自己反省することも又「じりつ」の基本的姿勢である。

私の場合は「仕事人」であること=「教育者」であった。
少なくともこの仕事を続けている限りはその自覚をもっていたい。
生徒にとって学校は一つの模範社会である。
実際の社会はもっともっと厳しく汚く辛いことが多い。
だからこそ、「教育者」である私たちは「彼らがめざすべき理想の社会」を学校で示す必要がある。
それが私たちの大きな仕事のひとつであり生き方であると私は考えている。




仕事とは何かと問われたら、私自身と答えるほど
私にとって自分が「仕事人」という意識は強い。
対することばが「家庭人」やら「遊び人」やら思い浮かぶが
良し悪しの問題ではなくどれもこれも私には縁遠い言葉なのだ。

前回私が「病人」として生きていると書いたが
それと同じくらい大きく比重を占めているのが「仕事人」の私である。
私はこどものころから、親に自立することの大切さを言われてきた。
家庭が裕福でなかったこともあったと思う。

私は担任をしている頃も通院を必要としていた。
生徒は私の心をわかっているのか
私の不在時に問題を起こすことは決してなかった。
それに助けられて私は仕事を続けてこられた。

保護者からもそれにまつわる苦情は一切なかった。
生徒ともに私を理解し、私のできる範囲での仕事ぶりを
しっかり評価してくださったからだと感謝しかない。
おかげで私は「病人でも働けるという一つの教材」として教壇に立てた。

管理職にならないかと当時の教育長から打診があったときも
病気であることを包み隠さずお伝えしたが
彼はそんなことは問題ではないとおっしゃってくださった。
彼自身が病気と闘いながら働いておられたのだ。

私は病気を抱えていても自立できる社会を望んでいる。
ここのところ池江選手が白血病を患ったのちの大きな活躍をみせているが
彼女の功績は、すばらし競泳の結果はもちろん、
でもそれよりももっと大きなことにあったと思う。

以前よりもメンタルが強くなったと彼女は言う。
また、何番であっても(大会の場に)いられるだけで感謝しようと思ったとも。
彼女のこういった精神は多くの「病人」が持っているいわば病人魂だ。
それを広げてくれた彼女に私は心からの感動をもって拍手した。

病気だけでない、障がいのある人々も、そのほか事情があっても
本人が何かを前向きに取り組みたいと思ったときに
それを少しでも支援できるような学校や社会を創りたい。
だから私にとって「仕事人」というアイデンティティはとても重要なのである。






自分が病気を患っていることや既往症があることを秘密にする人もいるが
私は特に自分が「病人」であることを隠してはこなかった。
というのも、私は病気によって留年し高校に4年間在籍していたので
その後の履歴書にも如実に表れているからかもしれない。
私は以来ずっとあちこち病気に見舞われて今に至る。
一見すると何事もないように見える私の体は
「もうお前は死んでいる」状態の箇所を随所に抱えながら成り立っている。

16歳の時からなので、当然心には紆余曲折の葛藤があった。
今ではファイバーで容易い手術も当時は大掛かりな手術だった。
高校生で体に大きな傷が残ることを嫌がった私に
ある看護師が「自分の命を守るためについた傷は誇りである」と話してくれた。
一年間の留年が決まった時、誰も気持なんかわかるはずがないと拗ねる私に
主治医が「私はわかります」と自分も病気で留年し
その後に同じような人々の助けになりたいと医者を志したことを淡々と語ってくれた。

友人たちが卒業したあとの高校生活は私にとって楽しいものではなかったし
いい思い出は全くといっていいほどない。
それでも何とか辞めずに卒業した日には自分自身を褒めてみた。
しかしながらその後も病気とは片時も離れることはできず
私は数々の病気とともに生きていくことになる。
私の病はすぐに死に直結するようなものではない。
それゆえに一層はた目にはわかりにくく状況は複雑だ。

「病は気から」ということばがあるが、とんでもない。
気持ちで治せるなら、気の強い私にこれだけの病気は居座らないだろう。
いくつもの病気を経験した私の見解として
病気に楽なものはない!というのが結論である。
私は無差別に傷んでいく自分の体を
なかなか受け入れることができずに人生を過ごすことになる。
自分を丸ごと受け入れるとはどれほど難しいことか。

人は弱いところがあるから人の痛みがわかるというが
そんなことはどうでもいいから健康な体をよこせと思い
若かりし頃には親にもひどいことばを投げつけたことも。
さすがに年を重ねていくにつれて観念はしたが
激しい痛みがあれば弱音のひとつも吐きたくはなる。
それでも多くの人々に支えられて
私はこれからも「病人」というアイデンティティを持ち続けていく。


  
  昨年度後半は病のためにご心配をおかけいたしました。
  あらためてここにお詫び申し上げるとともに
  今年度一層学校運営に邁進していく所存です。
  ご理解とご協力をよろしくお願い申しあげます。













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